描ける子の心を育てる”10のやってはいけない”

1. 他の子どもの絵と比べてはいけない

男の子のお母様が女の子の描いた絵と比べ「いろんな色を使ってきれいにぬってあるけど、うちの子はひとつの色しか使ってなく、色もぬってないのですがどうしてでしょう」と言うのが一番多い質問です。

先ず表現方法が男の子と女の子とでは違います。男の子は物を見て感じたことを、空間に描くように構成し、女の子は平面に表現すると言われています。

人さし指を一本出して空間に車を描いてみて下さい。車を描くと、道を描きたくなったり、もっと沢山の車を描いたりと、その空間にイメージを広げてどんどん描いていきます。これが男の子の表現方法です。

女の子はおままごと遊びをイメージしてみて下さい。地面に「ここは玄関、ここがキッチン、ここが子どものお部屋」と地面に線を引いて遊んだ記憶はありませんか?それを地面ではなく画用紙の上に描き、それぞれをかわいい色や、きれいな色で、ぬっていくのが女の子の絵です。

このように男の子と女の子でこれだけの違いがあります。絵は心の表現です、ひとり、ひとり違う絵を描くことの方が当たり前なはずです。絵を描くためのルールは全くありません。算数や国語のテストのように成績を比べ、1番を競うものではなく、世界に1枚しかない自分の絵を描くことです。世界に1枚しかない絵は比べようがありません。

2. お手本を描いてあげてはいけない

絵はその子が感動した心そのもの、観察したり体験したりして心に残ったことを描く作業です。お手本を描いてあげると、自分から感じようとしたり、物をじっくりみて観察しなくても、写しさえすれば済んでしまうし、自分で描くより上手に描けます。それは、その子から積極的にものを観察しようとする意欲をうばい、お手本を描いてもらえばいいや、という依存する心を育ててしまい、お手本がなければ描けない子になってしまいます。

では、お手本を描かない場合、「どう描いていいかわからない、何を描くか決まらない」と子どもが言います。「どうかいていいかわからない」と言われた時は、わかっていることを聞きだしたあげ、気づいていないことを質問して気づかせてあげる。

例えば、「水族館でみたイルカショーのイルカがかわいかったから描きたいけどイルカが描けない」という時
1、イルカの他にどんな魚がいたかを思いださせる
2、思いだしたさかなとイルカの違い、特にどこが違うかを気づかせる
3、イルカショーのどこを描きたいかを決めさせる

この時一番重要なのは、感動した心そのものを描くことです、イルカを正確に描くことに捕らわれると、どこまでいってもイルカが描けないことで前に進めません。絵は世界に一人しかいないその子そのもの、上手、下手と比べるものではありません。

「何をかいていいかわからない」と言う場合は、描きたいものがないわけではないので、何と何とに迷っているかを聞きだしてあげる作業をすると、その中から子どもは自然に自分で整理をして、描くことが決まってきます。

例えば、「プールに行った絵を描くか、田舎のおばあちゃん家に行った絵を描くか迷っている」と言う時
1、迷っている理由を聞きだす
「プールの絵は人をたくさん描かなくてはいけないから面倒くさい。田舎のおばあちゃん家に行ったけど、あまり覚えていない」
2、プールの絵描くときなぜ人をたくさん描かなくてはいけないかを聞きだす。描きたいことは混んでいたことなのか、遊んだ楽しさなのか。
3、田舎のおばあちゃん家の何を、どんなことを思い出せないのか、思い出したいのかを聞きだしてあげる。
子どもは思いだす作業をするなかで、どう描くかを考えながら決めていきます。たとえ決まるまで時間がかかっても描くことさえ決まれば絵は半分描けたも同じ事と、あせることのないように気をつけてあげる。
お手本を描いてあげることは、大人にとっても子どもにとってもとても楽なことですが、依存する心は生まれても、他になにひとつ生まれるものはありません。

3. 無理に形を描かせようとしてはいけない

親はわけのわからないぬりたぐられた絵より、「きれいなお花ね」「かわいい猫ね」と形を描いた絵の方が分かりやすいので安心するため、形を描かせたがります。絵はその子の心の表現であり、創造することです。形を描くことばかり要求すると、すでに図形化された花(チューリップとか)、三角屋根の家、もくもく雲、誰かが描いていた車といったものをだけを描くようになります。形はものをよく観察したり、感動したりして、そこから自分でつくりだしていくものです。図形化された形や、誰かが描いていた形を描いても、その子の心からは何の感動も生まれません。その子の創造する心、物をよく見ようとする心を邪魔することになります。花だって、車だって、こう描かなくてはいけないというルールなどありません。同じものを見たり、同じ時間を共有しても、ひとりひとりからちがう絵が生まれる、これが絵を描く楽しさであり、素晴らしさです。

4. 人、木、家などのバランスの違いを注意してはいけない

自分が中心に地球が回っているとおもっている間は、自分を1番大きく描いたり、気になることも強調されて描かれます。例えばハミガキをしている絵を描いたとき、歯ブラシを持っている手と腕の長さが、異様に大きかったり長ながかったりと、強調されて描かれます。もちろん顔いっぱいの口と歯もです。子どもにとって、歯ブラシを持っている手、口、歯しかその時は存在しないくらい重要なのです。たとえば、ドアに小指をはさんだ時を想像してみて下い。はさんだ小指以外は、自分の体の存在を忘れるくらい、全身小指の痛さを感じますが、まさにその状態が子どもの絵なのです。小指をはさんで痛いときに他の指の存在を話してもなにがなんだかわかりません。バランスの違う絵を注意することは、子どもにとってはさんで痛い小指い以外にも「存在を感じなさい」と言っているようなことなので、子どもは意味がわからず混乱するだけです。幼いころしか描くことのない絵をしっかりと認めてあげ、楽しみましょう。

5. 木は緑、空は青と固定観念を押し付けてはいけない

固定観念を持っていない間は、子どもは好きな色を自由に使い描きます。しっかりと入り込んでしまった固定観念から、どうぬけだそうかとおもっている私からするとうらやましい限りです。色に対しての固定観念が確立てしまった大人には、黒くぬられた空や黄色にぬられた太陽、青い葉っぱの木は心配こそすれ理解しがたいものです。「黒い空を描いてますが、性格が暗いのでしょうか」「太陽を黄色に描くのは理解できません、色の感覚がおかしいのでしょうか」とよく聞かれます。自由に好きな色で描いただけなのに、大人の固定観念を押し付けられて子どもは「なんで青い葉っぱじゃいけないの」「なんで大好きな黒で空をぬっちゃいけないの」と理解できずにいます。大人のなにげないひいとことは、子どもの心を想像以上に傷つけてしまいます。教室に通う子どものお母様が「子どものとき黄色い太陽を描いたら、太陽は黄色ではないでしょうと注意されました。なぜ太陽が黄色じゃいけないのか未だにわからないんです。だって太陽は黄色でしょう?」答えられませんでした、私には太陽は赤でも黄色でもなければ、赤でも黄色でもそれぞれの色でよいからです。私の作品には「黒い太陽」があります。

6. 子どもの描いた絵に大人の手を入れてはいけない

絵は心に感じたことや、創造したことを表現するひとつの方法です。ひとりひとり感じ方が違えば、描く線、選ぶ色、表現する形も違ってきます。「子どもをしかるときは、子どもの目線にで」と言います、絵も子どもの目線にあわせてみることが大事ではないでしょうか。

子どもの絵に手を入れることは、子どもの描いた絵を否定し、手を入れたところだけが大人の感覚、大人の目線の絵になってしまいます。

子どもは、感じたまま、見えたまま描いたのに、なぜ直されるのかわかりません、「自分は下手だから」と勝手に思い込み創作意欲を失わせることになってしまいます。子どもに教えてあげたい、と思う気持ちが反対に子どもの描く心を否定し、傷つける結果になります。ただし、高学年になり子どもが写実的に描きたいと望ん時、対象物をいかに正確に表現するか、その方法を描いてみせます。

7. 子どもの描いた絵を否定してはいけない

否定するのにもいろいろあります。
「雨の日に太陽を描くのはおかしい」「昼間の空にお星様を描くのはおかしい」というものから「人の腕は体のこんなところから出ていない」と具体的に表現を否定するものまで。
子どもの捕らわれのない自由な心から生み出される創造力は、大人には計り知れないおもしろさや意外性があります。

子どもは、何の疑問を持たず、青い空でもそこに何かをもっと描きたいと思えばお星さまを描きます。それはきっと一生懸命考えて決めた事かもしれません。それは何ものにも捕らわれていない自由な心だからです。もしそれを「昼間の空にお星様がみえるわけないでしょう」と否定されたらどうでしょう、自由な心は深く傷つき閉ざされ、絵を描くのが嫌いになってしまいます。

絵は心の表現であり、創造することですから、そこには間違った表現はないのです。何をどう描こうと自由でなければならないのです。

8. 大人の感覚を押し付けようとしてはいけない

大人は子どもの描いた絵を当然のように、大人の感覚で、大人の目線でみようとします。子どもを叱るときは子どもの目線でと言われますが、大人になってしまった今、子どもの目線でみることは出来きません、大人の何気ないひとことが、子どもの心を傷つけてします。

絵には勉強のように”何歳ならこの水準”というのがありません。算数の問題を解いて点数がでたり、漢字の書き取りのようにはっきりとした間違いはありません。またスポーツのように競い合ってナンバーワンを決られるものでもありません。大人はあたかも判断基準があるかのごとく子どもの絵を押し込めてみようとします。。その方が楽だからです。比べるものもない、判断する基準もないまっさらな心で子どもの絵をみてください。子どもにとって今しか描けない絵を、今しか描けない方法で描いていることを見るがわの私たち大人は決して忘れてはいけません。

9. 子どもの描いた絵をただやみくもに褒めればいいわけではない

子どもはいつもいつも創造力にかき立てられて描いてばかりはいません。あきらかに描きたくないのに描く絵があります。そういうときに褒めると、子どもは自分がいいかげんに描いていることをわかっているので「なんでも褒めればいいと思っているんだ」と大人を信じられなくなり、心は傷つきます。

ではどういう絵を褒めてはいけないのでしょう。
その子はいつもは描かない雑な描き方をしたり、図形化されたチュウーリップなどを描いたり、描いた絵について聞きだそうとしても「う〜ん、わからない」など
「う〜んわからない」と答えたときは100%描きたくなくて描いたと言えます私の教室に来ている子で絵が大好きで「大人になったら画家になる」と言っている子がいます(6年)。学校の美術の時間に、その日はやる気がなくて棒人間を描いているのに、先生に褒められたことがショックで、それ以後、褒めても「大人の言うことは信用出来ない。なんでも褒めれば喜ぶと思ってるんでしょう」と言うんですとお母様が困ってました。

子どもに「なんで棒人間を描いていたことを褒められたのがショックなの?」と聞いたところ「だって、棒人間は絵を描いていると言えないでしょう」その子にとって棒人間を描くことは絵を描くことではないのです。教室で人を描かなくてはいけないとき棒人間を描く子がいます、理由は100%「面倒くさいから」です。私の教室では棒人間を描くことは認めていません。棒人間は記号で絵ではないからです。でも、子どもたちの遊びの中に戦争ごっことか、ゲーム感覚の遊びがありますが、そこに登場するのが棒人間です。その時はイキイキ描いています。

10. 子どもが望んでないのに、無理に写実的に描かせようとしてはいけない

子どもが今感じていることを、今見えることを、今描ける方法で表現しているからです。例えばコップを描いたときコップの口のところは曲線で描けても、底の部分は直線で描きます。でも大人は、底の部分も曲線であることを教え直させます。これが大人の目線、大人感覚のおしつけになります。算数で図形の勉強をし、円柱はどこを切っても円であることを理解すると、すべての線は同じ円を描くことを理解し、はじめてコップの底も曲線で描けるようになります。でもまだ描けない子ももちろんいます。コップをみていても見えていないとかけません。見える子は「そうか」と言って直しますが、見えていない子は意味がわからないので「これでいいの」と言います。そういう場合は無理に直すことはしません。時間はいくらでもありますし、描けないことを意味もわからず描かせてしまうことの方がその子にとって、問題になるからです。それぞれの子どもをみて成長の違いを充分注意することが大事です。理解できないことは子どもの心を傷つけ、混乱させ、閉ざさせてしまいます。閉ざしてしまった心は、再び開かれることなく、大人になっても心の傷と共に「なぜいけないの?」の疑問がそのまま残ってしまうからです。大人の目には「なにこれが」と思ってもその子にとっては今描ける充分な写実画なのです。

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