「子どもが描く絵」について

「算数のテストが出来ないと怒られても、漢字が読めなくて恥をかいても、心の傷として残っていないのに、そんな先生のひと言で、絵が大嫌いになってしまった子どもはあまりにも多い。絵に対しての先生や大人たちのなにげないひと言で傷つき、「絵が嫌いになった」「もう絵は描かない」、そして大人になった今も忘れられない心の傷として残っている多くの人たちに出会います。しかし、そのわりに言った先生や大人たちは子どもたちを傷つけてしまった認識はないのです。

例えば・・
●自画像を描いたら「随分きれいに描いたわね」と言われた。
●昆虫を描きだしたらどんどんのめり込んで、かなり精密に描いたら「気持ち悪い」と言われた。
●野原の絵を描いたとき上半分があまってしまったので青空にした。でもなんだかもの足りなかったので星を描いたら「昼間に星はおかしい」と言われた。
●動物園に行った絵を描いたとき、自分では象の線も色も良いと思ったのに、色も線も先生が直してしまった。
●絵画教室で姉とサザエを描いたとき、姉はサザエらしい色で、私はピンク色で描いたら姉 の絵と比べられ「なぜサザエがピンクなのか」と怒られた。それ以後絵画教室を辞め絵を 描かなくなった。姉は今も絵を描き続け時々個展もしている。

図工の授業は子どもたちにどのような意味をもたらしているのでしょう。国語や算数と同じように授業として学び、通信簿に成績として現わし、それぞれを競い合わせるものなのでしょうか。

ジョージア・オキーフはつぎのように言ってます「学校や画家達から習ったことは、私に描きたいものさえ描かせまいとする・・・・絵を描く事は他者がまったく関与できない唯一のもの」(ジュージア・オキーフ PARCO出版)。大人であろうが、子どもであろうが、プロであろうが、アマであろうが絵を描くことは、オキーフの言ってる通り「他者がまったく関与できない唯一のもの」でなくてはいけないのです。

子どもたちは描きたいように描いただけなのに、先生や大人たちはなぜ子どもの絵に介入し傷つけてしまうのでしょう。先生や大人たちは子どもの絵を見るとき、常に自分が一番好む絵や、世の中の多数の人たちが良いと評価している作家などのお手本を持って、子どもたちの絵を比べてみているのです。比べるお手本がないと安心して絵を見れないからです。もっと素直に感じたままでよいはずなのに。
そしてよりお手本に近い絵に描かせようと導き、そのように描かれた絵を上手な絵として褒めます。その結果、見る先生や大人たちの満足する絵になり、そうでない絵にはなにげないひと言が。このようなことは描く子どもの心を不自由にするだけでなく、「かきた〜い!」心の声にフタをしてしまいます。

電話で長話をした経験を殆どの人は持っていると思います。その時のことを思いだした下さい。電話で話しながら最初は、話の中に出てきた人の名前や店の名前などをそばの紙にメモしたりしていますが、そのうちメモした名前を四角やまるで囲んでみたり、そのまわりに丸を描いて花らしきものにしてぬりつぶしてみたり、右から左、上から下と意味など考えず好きに線をかいたりと、自然に、自由に紙いっぱいに描たりした経験があると思います。

このように意識をしなければみ〜んな画家です。「上手に描かなくっちゃ」とまわりの目を気にしたり、自分の中にあるお手本と比べて「なんと言われるかしら」とか思うため、絵が描けなくなってしまうのです。絵は上手下手と比べるものではないのです。自分の描いた絵は世界にひとつしかない絵だからです。

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